hirogoal’s blog

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2002年ワールドカップの始まりは・・・

昨日は事務所で、2002ワールドカップの開催がどのようにして行われていたかを調べていた。それにしても日本が単独開催出来なかったことは、関係者の不甲斐なさ、不運によるものだったのだなと改めて思う。今の状況なら単独開催は可能だったのではないか。


まず、1986年、当時のFIFA会長のアベランジェが21世紀最初のワールドカップはアジアで開催したいと表明したことをきっかけに、日本は1989年11月に立候補する意志をFIFAへ報告する。そして1991年6月に招致委員会を発足し、各国をリード。この時点では日本の開催は確実なものに思える。
しかし、1993年韓国サッカー連盟会長にチョン・モンジュン氏が就任してから風向きが変わる。1993年10月ワールドカップアジア地区最終予選の最終日、日本がドーハの悲劇のなかワールドカップへの切符を失い、韓国が4度目の出場を決めた晩に、チョン氏はワールドカップ開催の意志をメディアに表明したのである。日本を逆転するためには、これほどよいスタートのタイミングはなかった。
そして翌年1994年の1月に招致委員会を発足。同じく5月に行われたアジアサッカー連盟から選ばれるFIFA副会長の選挙に出馬し、日本の村田忠男氏を大差で破り勝利。チョン氏は一気にFIFAの内部へ奥深く入ることとなる。
ときを同じくしてFIFA内での権力闘争がこの両国の関係に深い影響を及ぼす。日本開催を支持していたアベランジェ会長がその力を落とし始めていたのである。もともとその豪腕に対しFIFA内部では反対勢力の火の粉はくすぶっていた(特に欧州)。やがて反対勢力の力は拡大し、対立していたUEFAのヨハンソン会長が繰り出す案をアベランジェも飲まざるをえなくなる。FIFA内部にいてそのパワーバランスを細やかに観察することのできたチョン氏の力も大きかったのだろう。そしてアベランジェ・日本組は孤立し始め、欧州・韓国組が作り出した共催案がFIFA全体の意志となっていく。
ということが強引に言うならば2002年ワールドカップ日韓共催の経緯のようだ。


ひるがえって今回のドイツ大会を眺めてみる。約500都市でパブリックビューイングが開かれることや、チケット販売の方法、開会式の有無の争い等、FIFAに対してドイツの組織委員会は独立性を貫いているように見える。その開催の経緯はどうだったのだろうか。FIFAにもてあそばれた2002年との違いは、その立脚点からあるのではないか。改めてそのあたりは調べてみたい。ドイツに行く前に。